

今年、平城遷都1300年を迎えた奈良。今回多川貫首にお話を伺った興福寺も、同じく創建1300年を迎えます。本誌ではご紹介しきれなかった興福寺の魅力を、その歴史とともに追ってみましょう。
「神の地」に遷された興福寺
天智8年(669)、藤原鎌足の妻・鏡王女が現在の京都市山科区に山階寺を建立したのが興福寺のはじまりとされます。その後、藤原京に移され厩坂寺となり、和銅3年(710)、平城遷都に伴い藤原不比等によって現在の地に移され、名を興福寺と改められました。
興福寺が遷されたのは、春日野の西南の最先端。丘陵地で、都が一望できる場所でした。春日野は古くは「神の地」と呼ばれるほど神聖な場所だったのだとか。遣唐使も、出発前の儀式をここで行なったといいます。興福寺はいわば都の一等地に建てられたといっても過言ではないでしょう。他の都が正方形や長方形の形をしているのと比べ、平城京が東に張り出した形になっているのは、興福寺が京域に入るように左京を伸ばして拡張したからだそうです。藤原氏の氏寺としてスタートした興福寺ですが、その立場は都の形を変えるほど、非常に公的であったことが分かります。
焼失と復興の歴史
養老4年(720)には朝廷に「造興福寺仏殿司」が設けられ、伽藍が次々と整備されていきます。光明皇后の発願で、阿修羅像や五重塔がわずか1年で建立されたことは本誌インタビューでも触れられていました。天平の時代の底知れぬパワーを感じます。
輝かしい天平文化の代表・興福寺創建の歴史は、11世紀以降、焼失と復興の歴史へと転換していきます。境内が幾度となく大火に見舞われるのです。五重塔や北円堂、金堂と相次いで焼失し、治承4年(1180)には、平重衡の南都焼打ちで伽藍が全焼してしまいました。しかし、焼失した建築物はそれぞれ、数年後には見事に復興を遂げています。氏寺としては考えられないほどの迅速さは、公私の立場を両立した興福寺ならではといえるでしょう。そして何より注目したいのは、常に元の姿に戻すことを目的とした再建が行われたということです。時は、大陸の文化が次々と入ってきて、文化や技術が急速に発展していく時代。再建当時の最新技術・最新様式で復興させることが多かったといいます。しかし、興福寺は失われたものをもう一度、同じ様式で復活させてきました。現存している建築は鎌倉時代に建てられたものですが、本誌で多川貫首が語ってくださったように、そこに吹いているのは間違いなく「天平の風」なのです。鎮護国家思想に後押しされながら、迅速に、丁寧に文化を作り上げた天平の人々のパワーと、再建に携わった人々の「あるべき姿に戻す」という熱い思いが時を超えて現在にも息づいている――。そこに、興福寺の大きな魅力があるといえるでしょう。
天平の風が伝えるもの

少年のように繊細で美しい表情が、見るものを魅了する八部衆像・阿修羅。造仏の技は、大陸の影響を受けたとされている。
今年創建1300年を迎える興福寺の一大事業、中金堂の再建がいよいよ10月に本格的にスタートします。中金堂とは、3棟ある金堂のうちの中心にあたるものです。創建は和銅7年(714)。その後焼失と再興を繰り返しましたが18世紀初め、7度目の火災で焼失し、仮金堂が建てられて以降再建されていませんでした。2018年の完成を目指して始まった中金堂再建という大プロジェクトで最初に行われたのが、基壇の全面発掘調査です。その結果、最後に焼失した18世紀まで、天平期の基壇がそのまま使われていたことが分かったそうです。7度の再建の際にも手を加えず、創建当初の姿が残されていたのです。今回の再建では、文化財保護の観点から、残された基壇を直接使うことはしていません。しかし、現在でも上にそのまま柱を立てることが可能な状態なのだそうです。中金堂の柱は66本なのだとか。1300年の時が経ったにも関わらず、大きな柱を60本以上も支えることができる基壇。見えないところに手を抜かない、基礎を正確に作り込む天平の人々の心意気がここにあります。
多川貫首はこうもおっしゃっていました。「この中金堂の基壇に関しては、不比等の土木作業チームの技術の高さ・確かさに感服しました。そしておそらく、そのチームの中には少なからず大陸からやってきた技術者たちがいたはずです。特に指導者の立場の者は間違いなく渡来人だったのではないでしょうか。大陸の文化を伝える者と、国家意識を持ち始め、日本の文化を築く者の共同作業。純粋な国際交流、国際協力というのは、この時代に実現していたのだと改めて感じますね」
興福寺の境内に吹く「天平の風」は、1300年の時を超えて、現代の私たちが見失いがちなものを伝えてくれています。
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